芋太郎の子育ての方針は完璧に「自由・放任主義」である。

子育ての方針は完璧に「自由・放任主義」である理由

ランニングブログであるはずが、子育て論を入れるあたり調子に乗っている芋太郎。

最初に言っておくが、芋太郎の子育てはたかが5年間だ。

結果も何も出ていない。

正しいかどうかなんて、当の本人すら分かっていない。

ただ一つ言えることは、芋太郎は子供がいい大学に行っていい会社に就職するだとか。

誰もが羨む身分になるだとか。

そういうことが成功だとは全く思っていないし、その時点が結果だなんて馬鹿げている。

子供たちが大人になって色々辛い経験をして、それでもなお「自分は幸せだ」と思ってくれれば、それが大成功だと思っている。

だから芋太郎は子供に勉強的な何かを教えることは全くない。

どこかの誰かが作った幼児教育なんて全く興味がない。

小さいころからの英語教育?

イオンとかでたまにディ〇ニーのDVDか何かを配っている。

風船がもらえたりする。

それはもらう。

それはもらうが、はっきり言う。

「ウチは放任主義なので。」

もちろん、子供自身がやりたいというならやってもいいが、全くそういうこともない。

それならわざわざ親が仕向ける必要もなかろう。

ディ〇ニーの英語DVDを配っている販売員が、さも幼児からの英語教育の重要性を語る。

申し訳ないが、その販売員は実際のところ英語は話せないだろう?

マニュアル通りの説明をしているだけだろう?

そんな片手間感満載で売られている商品が、その子の人生に大きな影響を与える英語教育になり得るだろうか?

私は先日5歳になった長女に勉強的なことは何も教えていない。妻も教えていない。

そして自由放任万歳の自然の中にある幼稚園でも一切教わっていない。

それでも、ひらがなは書ける。一ケタの足し算だったらできる。I’m hungry.としつこいほどに言う。

友達のお姉さんたちや、いとこや、オモチャや、コラショや、テレビが勝手に教えてくれている。

5歳の発達の相場は分からないが、私はそれで十分だと思っている。

そんなことよりも、出会った人の顔と名前を覚えたり、自分の誕生日を覚えていたり、自分の家がどのあたりにあるかを覚えていたり、そっちの方が大切だ。

私は別に他人の子育てがどうであろうが知ったこっちゃない。

「勉強が一番」という家があってもそれはそれでどうでもいい。

私は私の人生しか知らないから、それが正解だとか間違いとか、正義だとか悪だとか。

そんなことを論じる資格は当たり前だが全くない。

私は他人の家の子育てについて、やんややんや言うのだけは絶対に嫌だ。

子育ての方針なんてものは、その人自身の人生だ。

子育てする人の人生、そして子育てされる人の人生。

他人が否定していいはずがない。否定する権利などない。

そもそも私は「子育て」という言葉自体があまり好きではない。

子供は「育つ」ものだ。

私にとっては「子育つ」と言った方がしっくりくる。

もちろん、ネグレクトとか極論を突っ込まないでほしい。

「極論は時として意味をなさない」これは私の大学時代の大嫌いだったゼミの講師が言った言葉だ。

講師自体は嫌いだったが、この言葉はなかなかいいなと記憶している。

ということで子育てに関しては、私は生粋の「自由・放任主義」者であることをここに宣言したいと思う。

長々しい前置きになってしまったが、3つの理由を加えておこう。

①自分の経験

私は自分自身が親から「勉強しなさい。」とか、「〇〇点を取りなさい。」とか言われた記憶が一切ない。

勉強に関しては仮にいい点を取ろうとも、悪い点を取ろうとも、何も言われなかった。

その代わり「挨拶をしろ」とか、「ありがとう」を言えとか、そういうことはずいぶん言われた。

人に迷惑をかけるな。迷惑をかけたら謝れ。

人に感謝しろ。何かをしてもらったら「ありがとう」とすぐに言いなさい。

この二つは本当に繰り返し言われた。

墓参りで誰かの墓に座ってしまったことがあった。

すぐに下りるように言われた。

そのとき私が「やべ~、呪われる。」と一言。

烈火のごとく怒られた。

「そうじゃないだろう!眠っている人がいるのに、そこに座るなんてその人に迷惑をかけているだろう!お前が呪われるかどうかなんか関係ないんだ!」

大人になった今でも覚えている。

どの大学に入っても、むしろ入らなくても。どんな会社に入っても、辞めても、起業しても、全て何も言われなかった。

そういうことで褒められることもなければ、否定されることも一つもなかった。

その代わり、マラソン大会で頑張ったり、友達にお礼を言われたり、何かのリーダーになったときなんかは褒められた。

そうやって育ててもらって、そして今、ここまでの人生に不満は特にない。

だからこそ、子供を縛るような方針だけは絶対にとれない。

②妻の経験

妻は妻の人生なので、私は詳しく知らないが。

ただ、妻の両親や兄妹を見れば想像はつく。

私の家族とそうは変わらないであろうと。

私が妻と結婚したとき、私は自営業であったがお義父さん、お義母さんは全く何も言わなかった。

そして、私が会社を設立し代表取締役になっても、何も言われなかった。

そういうことには全くこだわらない人たちだ。

だからこそ妻も子育てについて一度も言ったことがない。

「ミー坊に何か習わせた方がいいかな?」と。

唯一、万が一川遊びで増水したときに備えて水泳だけはやっておいた方が良いかも…とは言っているが、長女本人には伝えていないらしい。

夫婦で子供たちの教育方針について、話し合ったことも一度もない。

とりあえず学資保険だけは妻が勝手に入っていたが、私はそれもどうでもいいと思っている。

妻のこれまでの人生経験からも、自由放任主義で一致しているのだと思う。

(話し合ったことがないので、ハッキリは知らないが。どこでもいいから高校には通ってほしい、とは言っていた。)

③仕事上の経験

私は子供に関わる仕事をしている。

もっと言うと教育に関わる仕事だ。

詳しく知りたければ、リンクが張ってある姉妹ブログを見てもらえれば一発で分かる。

その経験上、結局、親主導の中途半端な教育方針が多くの空しい結果を生んでいるのを目の当たりにしている。

分からない。

超英才教育でオックスフォードとかケンブリッジとかハーバードとか、そういうところまで持って行く人たちのことは分からない。

所得階層、住む地域、その他もろもろ、根本が違うんで分からない。

しかし、いわゆる普通の家庭でありながら親先行での教育方針が進んでいる子供たち。

私が関わる時点ではいい結果が生まれているとは思えない。

いや、分からないぞ。

たとえば親に服従するしかない、親を喜ばせるための行動をとるしかない、そういう若い時期を経て何か葛藤だとか、ストレスとか、そう言うものに耐えながら、それでも人生の課題を克服することで成長できる人もいるのかもしれない。

もしくは親の言う通りやり続けて、本当にスンナリ自分の思い通りの人生を歩む人もいるのかもしれない。

でも、少なくとも私の仕事上ではそういう期待を持って関われる子供たちは少ない。

むしろ、親が自由・放任まではいかないが、見守って手助けをしてあげる、という家庭の子ほど、生き生きと成長をしているように思う。伸びしろもあるように思う。

これも私個人の経験、一個人の意見にすぎないから過敏に反応されると困る部分ではあるが。

「自由・放任主義」でも意識している3つのこと

「自由・放任主義」と言っても、もちろん何も考えていないわけではない。

社会の中で生きていくのに、本当に100%フリーに生きて良い訳がないし、生きていく力はつけて欲しいと願っている。

とりあえず、3つのことだけは意識して子供と接している。

①「感謝」と「謝罪」を大事にする

これは私が幼少期に口酸っぱく言われてきたこと。

そして、大人になって社会で働き始めてからも、痛切にその重要性を感じていること。

いや、働く場面だけではない。

プライベートだってどこだって、「感謝」と「謝罪」は大切だ。

人と人とが関わる全ての場面で、これは当たり前に大切なことだ。

②大きな声で「挨拶」

大きな声で挨拶ができるだけで他人を良い気持ちにさせる。

元気な挨拶は他人を元気にする。

それだけで他人に好かれることもあるだろう。

芋太郎はかなり捻くれた性格をしているので、学生時代まではつーんと尖ったふりをしていた。

バイトに行ってもぼそぼそと挨拶する程度。

やはりそれでは他人に好かれない。

他人に好かれないでも「俺は俺だから」なんて強がっていたが、そんなのはガキの発想だ。

社会人になって最初は形からだったが、お客様、仕事の仲間に大きな挨拶をせざるを得ない状況になって、挨拶の重要性を学んだ。

大きな元気な挨拶をされて嫌がる人はいない。

そして、好かれることで自分自身の毎日も楽しくなる。

他人が気さくに話してくれることが捻くれた芋太郎の心をどれだけ救ってくれたことか。

「昔は話しかけ辛かったけどな。」

昔の同級生に会えば言われることもずいぶんある。

そうやって言ってもらえることに多少の恥ずかしさと大きな喜びを感じる。

朝起きたとき、近所の人に会ったとき、夜寝るとき、どこかに出かけるとき、誰かを見送るとき、家に帰ったとき、ご飯を食べるとき、食べ終わったとき。

必ず大きな声で挨拶をすること。

英単語を覚えるよりも、我が家にとっては何倍も大切なことなのだ。

③ツッコミの強化

私は子供たちとの会話でボケる。

かなりの頻度でボケる。

たとえば外に出かけるときに「はい、帽子。」と言って、自分のズボンを渡したりする。

モンシロチョウを指さして、「おい、あそこにキリンがいるぞ!」と言ったりする。

そのたびに子供たちは私にツッコむ。

どこかで聞いたのだ。

子供たちにツッコミをさせるのは、子供の思考やコミュニケーション能力を発達させるのに良い、と。

自由・放任主義の芋太郎だが、これはとても良いなと思った。

子供にも自分たちにも負担にならないし、何より面白い。

たしかに大人同士の日常会話を考えても、ツッコミ担当のヤツは頭の回転が速かったりする。

別に頭の回転が速くならなくてもいいが、遊び半分で出来るんだからコレは意識しようと。

幼稚園のアンケートで、子育てで意識していることはありますか?の欄にもコレを書いた。

「できるだけツッコませるために会話でできるだけボケる。」

面談で若い幼稚園の先生に笑われたらしい。

妻に悪いことをした。

まとめ

私は自分自身が「親に言われたことをやったから〇〇」と思ったことが一度もない。

「親に言われたことをやったからよかった」もないし、「親に言われたことをやったから失敗した」もない。

そもそも「親に言われたこと」は、やったから良いとか悪いとかの次元ではなく、人として当たり前のことだけだった。

私は絶対に子供たちに「親に言われたことをやったから失敗した」なんて思われたくない。

じゃあ、「よかった」と思われるように必死に子育てを研究して子供たちに向き合えばいいだろう、って?

それはムリな話だ。

私はそんなに優れた人間ではない。

誰かの人生の1から10までに責任を持って成功に導けるほど能力もないし、人間的魅力も兼ね備えていない。もちろん、財力はもっとない。

子供たちには、自分自身のことなんか絶対に尊敬してほしくない。

私レベルの枠にとらわれて、私レベルの人間に収まってほしくないのだ。

これは間違っても私よりもいい学校に行って、私よりも稼いでほしいとかそういうことを言っているのではない。

私よりも多くの人に慕われて、私よりも広い世界を知って、私よりももっと幸せになってほしいと願っているということだ。

それはどんな子育て方針を持っている親でも同じことだとは思うが。

こういう話をおなじ年代の子供を持つ同級生とたまにする。

そうすると言われるのだ。

中学までは親がレールを引いてやらないと。

いや、高校までは親がレールを引いてやらないと。

そうなのかもしれない。

でも、それはアナタ方の子供は、という話だ。

アナタ方の子供たちはアナタ方の敷いたレールの上で、親が望んだ通りの学校に入るのかもしれない。

きっとアナタ方の期待に応えることだろう。

私だって子供たちには期待しているのだ。

親がレールを敷かなくても、自分たちで道を探してその道を進んでいってくれるということを。

図らずも今回の記事はカッコいいことをズラズラ書いてしまったと思っている。

あくまでもコレは共感を求める記事ではないということを断っておきたい。

読者の方が芋太郎という微妙なブロガーの性質というか、キャラクターを知る一助になればという位置づけだ。

頼むからこの記事をもって「私も子供が生まれたら芋太郎さんのような子育て方針にするわ!」なんて言うことだけは辞めて欲しい。

芋太郎にはその期待を背負うだけの人格も経験も知識もない。

もしかしたら、ここで書いていること自体、全部架空の話かもしれないんだぞ?

芋太郎は実はバリバリの教育子育て論者かもしれないんだぞ?

ランニング中毒者たちに良い顔するために香りづけの印象操作の記事かもしれないんだぞ?

子育ては人それぞれ。

誰のそれも否定できないし、肯定もできない。

我が道を貫くもよし、他人に影響されるもよし、だ。

ただ繰り返すが、芋太郎に影響されるのだけは辞めて欲しい。