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仕事と家庭とランニングを並立させるとは?

仕事と家庭の両立という言葉はよく聞く。

それ自体難しいのもよく分かる。

芋太郎も適当なことばかり言っているが、一応これでも3人の子供の父親だ。

それなりにストレスを抱えることもあるし、それなりにもどかしい気持ちを持っている部分もある。

しかしだ。

世の中の市民ランナー、つまりランニング中毒者たちだが、彼らはあえてそこにランニングを付け加える。

無謀だ。

ちなみに、やたらオシャレな格好して上下動激しいフォームで朝ランしてSNSの映えを気にしている遊ランの意識高い系を市民ランナーとは私は言わない。

市民ランナーと呼ばれる人たちは、少なくとも記録を狙い何かを犠牲にして走っている人たち。

自身の映え目的で遊ランしている類の人たちとは違うのだ。

すでに走ることが生きる目的、もしくは哲学になってしまっている人たち。

それが市民ランナー、またの名をランニング中毒者

ブログ開設後の3週間でずいぶんとFacebook上で「いいね!」をもらった。

「いいね!」をくれた人たちのプロフィールなど見てみると、皆しっかり仕事をし家庭を持っている人が多いのだ。

すでに仕事と家庭、二つの命題を突き付けられている人たち。

そこに彼らは第三極、ランニングを人生にトッピングしてしまっている。

大丈夫か?

なぜ私がこのようなことを言うか。

それは芋太郎の9月~11月がまさに仕事、家庭、ランニングの3つ巴合戦が始まるからだ。

その大変さというか、過酷さを3か月限定ではあるが知っているからだ。

一応芋太郎の9月~11月の3つ巴合戦の日常を紹介しよう。

芋太郎のランニング期間中の平日

午前6時~6時半 起床 ⇒ ゴミ捨て ⇒ ランニング

午前8時前まで ランニングから帰宅 ⇒ 筋トレ(腹筋のみ) ⇒ シャワー

午前8時半~9時半 洗濯(洗う、干す、しまう、すべて)+空いてる時間でブログ or 子供の着替え or オムツ交換

午前9時半~11時 ブログ or オンラインサロン or 本業

午前11時~12時半 昼食 ⇒ 昼寝

午後12時半~1時 仕事の支度 ⇒ 出勤

午後1時半~午後10時 仕事

午後10時半 帰宅 ⇒ 夕食 ⇒ 風呂

午後12時前 就寝

こんな感じだ。

「これでよく家事・育児をやってるって言えるな!」

と、ツッコまれると困るのだが、これでもギリギリだ。

ギリギリの線で3つを並立していると自分自身では思っている。

もちろん、妻に言わせれば足りなすぎるのかもしれないが…

正直、ボケーっとする時間はほとんどない。

何か一つもっとボリュームを増やしたいと思えば睡眠時間を削るしかないが、おそらくそれをやったらランニングは終わるだろう。

ランニング初心者の芋太郎でさえ、こんな生活なのだ。

世のランニング中毒者の人たちは、もっと時間を切り詰めて生活しているはず。

中には家庭のボリュームを減らしてまで、ランニングの時間をとってしまう強者もいそうだが、芋太郎は緑色の届け出が怖くてそんな選択は絶対にできない…。

芋太郎の心の持ちようとは?

まず他人と比較することは辞めた。

全くもって意味がない。

自分はコレだけやっている。だから十分だろ?

無意味すぎる。

家事・育児の世間の相場なんて全く分からないのだ。

マスコミに踊らされてイクメン、イクメン、イクメン、イクメン…とお経のように唱えれば父親の家事・育児参加はインフレーションを起こすだろう。

逆に超人気俳優かなんかが、昭和の父親像を持てはやせば、パパの負担もデフレを起こすかもしれない。

家事・育児の相場なんて小豆の変動相場と一緒だ。

ゴミ捨て3点

洗濯物5点

おむつ替え5点、ただし「大」なら7点

一日20点ならパパとして合格?

バカ言うな、無意味だろう。

点数つけて俺は世間の平均点以上をやっているんだぜ!なんて主張したって意味がない。

そんなこと言いだしたら嫁さんだっていうはずだ。

自分の手料理は世間の点数より常に10点高い。カレーは20点高い。とか…

そんなものはそれぞれの価値観、能力、経済力、その他もろもろ、下手すりゃその日の天気

ありとあらゆる要因によって合格点なんて変わる話なのだ。

だから芋太郎は他人と比較しない。

そして家庭に期待しない。

自分の働きを認めてくれ、なんて期待は一切しない。

それをするとストレスがたまる。

人間なんて都合がよくできてる。

自分の働きとか能力以上の評価を求めてしまう、期待してしまう。

「俺は経営者で忙しいのにおむつ替えまでやってるんだ。なんでそれを認めてくれない?」

妻からすればそんなことは関係ない。

経営者であろうと落ち武者であろうと家族は家族だ。

彼女が考える家族としての持ち分を果たさないヤツになぜに評価を与えねばならぬ?

それは自分も一緒だ。

妻が日常当たり前のようにやってくれていることを評価したか?

していない。

洗濯機の裏に埃が自然とたまらないのはなぜだ?

仕事場のコピー機の裏はむちゃくちゃ埃がたまっているというのに。

妻がやってくれた洗濯機の裏のその埃取りに自分は何か点数を与えただろうか?

与えていない。

それは当たり前のことと思っているからだ。

世間はそれを感謝が足りないと言う。

お互いがお互いを感謝しあえば解決すると言う。

そんな馬鹿な。

感謝の気持ちとは無理やり誰かに言われて沸き起こるものなのか?

世間の風潮に押されて、偉そうな育児評論家の意見に押されて、無理やり口から出した「ありがとう」を感謝と言うのか?

そんな「感謝」で家事・育児・仕事にその他もろもろで疲弊した現代の一般家族が本当に幸せになるとでも?

芋太郎が導き出した答えは、「あきらめ」と「一体化」だ。

芋太郎の家では家事・育児はある程度はしないと成り立たない。

それを他人と比較しない「あきらめ」

妻が自分に気を遣うはずがないという「あきらめ」

こういう言葉を使うと何やらかんやら批判する人もいるかもしれない。

「何があきらめだ?家事・育児をするのは当たり前でしょ?家族なんだから、父親なんだから。上からモノを言うんじゃない!」

申し訳ないが、そういうことを言われても困る。

私自身は全く偉いとも思っていない。

妻のことは未だに「~さん」付けで呼んでいるし、何かを命令したこともたぶんほとんどない。

違うのだ、自分自身を偉いと思っているわけではないのだ。

妻だってあきらめている、いや、妻の方がむしろあきらめているというのが分かるのだ。

私が家事代行サービスを頼めるほど高収入にはならないこと、オーランド・ブルームのようにカッコよくはならないこと、そしてテレビに出てくるような理想的なイクメンパパにはならないこと、その全てを妻の方が大きくあきらめていると思う。

あきらめないとお互いストレスがたまる。

あきらめることで笑うことができる。

そういう「あきらめ」もあるんだと。

私から言わせれば、些細な言葉尻を捕まえて、やれ権利がどうの、平等がどうの、時代がどうの、そういうことを喚いている内はまだまだ余裕があるんじゃないかと思ったりもするぞ?

「一体化」というのは、家族も仕事もランニングも全部一緒なんだと。

区別なんてないんだと。すべてが繋がっているんだと。

家族に負担をかける。家族にストレスをかける。

それは必ず自分に返ってきて自分もストレス抱えて、自分の仕事のパフォーマンスは落ちる。

仕事が不調なら気持ちも落ちるから、ランニングなんて行きたくなくなる。

辛いトレーニングに耐えられなくなる。

走力は上がらない。

ランニングをやらなければ、ぷくぷく太ったメタボリッカーになるかもしれない。

それはそれで家族に迷惑をかける。病気になるかもしれない。何より娘にとってはカッコ悪いパパと化す。

ハーフマラソンで90分切できなければ、仕事上での自身のインパクトが弱まる。

お客様も減るかもしれない。

ランニングができなければ、ブログだってネタがなくなる。

広告収入が減る。

全部が全部「一体化」している。

そう思えば、家事・育児がもっと少なければ…

ランニングの時間がなければ…

そんなくだらない望みを抱かずに済む。

いや実際は思う瞬間もたくさんあるのだけれども、何とかそうやって考えると落ち着く。

子供が大きくなるまではこういう葛藤と戦い続けるんだろうな、と。

まあ妻はさらに2倍、3倍大きな葛藤と戦い続けているんだろうから、当然のことながら文句は絶対に言えないが…。

世のランニング中毒者の人たちはもっと色んなことと戦い続けているんだと思うので、私のちっぽけな愚痴みたいな記事はこのあたりにしよう。